2009年7月発行機関誌 No.008

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2009年7月発行機関紙(No.008)より

梅雨ですね。雨が続くこの時期は、みなさん、どのようにお過ごしでしょうか? 読書に耽るのもよし、勉学に勤しむのもよし。
雨を理由に、たまにはゆっくりと家でくつろいでみませんか?

多くの人に支えられての自立生活30周年

昨年12月14日に自立生活を始めたときの仲間が呼びかけ合って祝賀会を開いてくれました。60人もの人が集り、十数年ぶりに会う人たちがたくさんいました。呼びかけ動いてくれた人たちに感謝すると同時に、この何十倍もの人たちと支えあいながら生きてきたんだなあと思いました。そして、これが僕の財産だと実感しました。その場を借りて、両親にこれまでの感謝の気持ちを書いた手紙と花束を渡すことが出来ました。次の手紙がその時のものです。

両親への手紙

両親へ

おやじ おふくろ苦労ばかりかけてゴメンな
でも、僕は二人の子供でよかったと思います。
生まれてまもなく、CP(脳性麻痺、 Cerebral palsy)であると分かり交通事情の悪いなか志方から神戸や大阪の病院を受診したり、マッサージに定期的につれてもらっていた記憶があります。

僕が学校に通う兄達を見て、「学校に行きたい」というものだから、教育委員会に掛け合い、当時は校区外だった養護学校におふくろが付きっきりでかよわせてくれましたね。そんな養護も高等部になると周りの反対をよそに中退した僕を受けいれてくれたことに感謝しています。

ご両親に花束を贈呈している様子

そして僕は、障害者運動に没頭していきました。養護学校の義務反対の運動やいろんな座り込み闘争で新聞に載ったこともありました。また、別の事件の証拠固めのために,警察がでっち上げて被疑者として、取調べを受けたこともありました。

心配してくれる二人に対して「あんたの子供を信じなさい」としかいわなかったと思います。それは今も人に後ろ指を指されるようなことはしていません。

二十歳になると「自立する」といいだした僕をなかなか信じてさえくれませんでしたね。事を勝手に進めようとする僕に「お前らみたいな障害者に、一生付き合うやつがおるか!やめとけ」と殴り合いの喧嘩をしましたね。あれから三十年という月日をへて、今日僕のお祝いをしてくれる為にこれだけの人が全国から集まってくれました。これも人と人のつながりの大切さを教えて育ててくれた二人のお陰です。

家を出る前の日に荷造りをしていて食器を洗うスポンジがないと買いに走ってくれたおふくろ、それに対して、そんなのどこでも買えると当時は思っていた。また料理のできない若い子に介護してもらうのだから野菜をいっぱい入れた豚汁を作(つく)ってもらえ。誰が作ってもおいしくて栄養があると教えてくれた。姫路に送ってもらう車の中では、いつでもしんどくなれば帰って来ればいいといってくれたおやじ。そんな二人の気持ちが僕もようやく少し分かる年になってきました。

家を出たことで一番つらかったことは、実家に帰るたびにおふくろの腰が曲がっていくことでした。でもそれも兄に初孫が生まれたり、他に生きがいが見つかったりして元気を取り戻していく様子を見て安心していました。

それと今も八十を迎えても旅行やダンスに打ちこむ二人が僕に人生は楽しまなあかんと教えてくれている。

僕も今楽しんでいます。二人の年になってもまだ遊んでいたいと思う。また三十年後に自立生活六十周年を一緒に祝って欲しいものです。

本当に僕は思っています。二人の子供でよかったと、そしてこの身体でよかったと。また生まれてくるのなら迷惑かもしれないが。二人の子でCPとして生まれてきたいと思っています。

2008年12月14日
高田 耕志
線維筋痛症(せんいきんつうしょう)を抱えながら

私は、昨年、11月頃に『線維筋痛症』という全身に激しい痛みが襲う原因不明で治療法も確立されていない疾患を確定診断されました。
最初は、何で私が?と信じられませんでした。症状が悪化し、状態が変化していくうちに生活は自らできなくなりこれからどうなっていくんやろと不安で歯がゆく情けないと思う事が多々ありました。

現在も、寝たきりで毎日激しい痛みに耐えながら大変な日々を送っており辛くて苦しいですが、周りの人に支え、励まされ感謝しながら毎日を過ごしています。

理解が得られにくい病気になって失ったこと苦しいことばかりではありません。健康である事のありがたさ、命の重さ、人の温もり、優しさ、人との関わり、友達の絆、出会いの大切さなど、病気にならなかったら気付き得ていなかったことにありがたく感じる事もあります。

町田さんの親友?の小太郎くん(ぬいぐるみ)

この病を持った方は、私以外にも大勢の方が潜在しているにも関わらず、検査で異常が出なく、知名度が低いために、周りから理解されずに、誤解をされ苦しんでいる方がたくさんいらっしゃいます。

また、重症化すると自力での生活は困難になります。難病指定になっていないため経済的にも負担になり、生活が不自由になっても障害認定されずに公的な援助が受けられず痛みと闘いながら苦しんでもがいている人が多くいるのが現状です。激しい痛みでADL (日動生活動作能力、Activities of Daily Living)、QOL(生活の質、Quality of Life)が著しく低下するにもかかわらず、公的支援を受けれないのはこんなに悲しくて辛いことはありません。

私自身線維筋痛症患者ができることとして、病気の体験談、痛みを抱えた日々の生活の大変さなどの講演会を少しずつしていき一人でも多くの方にこの病名、病気を社会に広めて理解して頂くことと考えています。

またこの病気をきちんと診断する医師が増えていく事、そして難病指定になり、障害認定され公的な援助が受けれる日々が一刻も早くきます事を強く願っています。

町田 佳織

介護を考える・・・

2009年4月から町田佳織さんの介護に「らいふ・すけっと」が携わるようになりました。

介護内容は、ベッド上での洗髪、全身清拭、足浴手浴、体位交換、食事などですが、町田さんはベッド上にいるだけでも全身の激痛に襲われたりする状態で、介助で身体に少しでも触れたり、動かしたりすると激しい痛みがあるため、介助には町田さんと一体になって、身体の支え方を工夫するなど細心の注意で試行錯誤を重ねていっています。

ヘルパーは皆、線維筋痛症の人の介護経験は初めてなので、その様子を町田さんに聞いてみると 「痛みがあるので、ひとつずつ介助動作、進め方を一緒に考えながらやってもらっています。戸惑うところもあるかと思いますが、信頼関係と相手の状態に合わせる介護が大切やと思います。」とのこと。

「うちのヘルパーにその姿勢があると感じられますか?」と聞いてみると「はい、あります。」と答えてもらえました。

自らも発病前は介護者として仕事をされてきた町田さんが、介護を受ける立場になって介護をする姿勢の大切さをよりいっそう強く持たれているように感じられました。

そして、町田さんの笑い声と痛みをこらえる顔が心に強く響きました。

今後、町田さんの希望されている難病指定を得られるような取り組みにも協力していきたいと思います。

友田 美代子

ガイドヘルパーを利用して

私事ですが、2007年冬の当機関紙 にて、移動支援に支給量が増えたことをお話しさせて頂きました。今回は、実際にどのようにガイドヘルパーを利用しているのかをお話ししたいと思います。

昨年、友人の結婚式に呼ばれる機会がありました。滅多にないチャンスとばかりに、結婚式に着ていくおしゃれ着を買いに行くことにしました。

ガイドヘルパーを利用して洋服を買いに行ったことはそれまでにもありましたが、今回、ガイドヘルパーを利用できてよかったと思えた一番の出来事とは、何度も試着できたことでした。ヘルパーさんは日ごろから私の介助をしてくださっている方だったので、狭いフィッティングルーム内でも、てきぱきと着替えさせてくださり、おかげで、「見た感じと着た感じはやっぱり違うね」などと話しながら、納得のいく服が買えました。

ショッピングは、会社の帰りに一人でぶらっとすることもあります。友人や家族と一緒に出かけることもあります。でもそんな時は、ほとんど試着をしません。体に当てて、鏡を見て、似合うかどうかをチェックするぐらいです。服を着たり脱いだりするのに介助を必要とする私にとって、「試着」はなかなか敷居の高いものなのです。
ちょっとした事が、ヘルパーを利用することで問題なくできるようになる・・・当たり前のようだけど、改めてガイドヘルパーがいてよかったと思えた瞬間でした。

金村 和美

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ユニハイツ101号